2010年8月11日水曜日

伊藤みどり~銀盤を舞う3回転半(トリプルアクセル)

1992アルベールビルオリンピック
銀メダリスト
伊藤みどり1969813日愛知県名古屋市出身)

女子選手として史上初のトリプルアクセル成功者
全日本フィギュアスケート選手権8連覇を含む9回の優勝(1984~91、95)
       NHK杯4連覇を含む6回の優勝(1984~85、88~91)
       1988年カルガリーオリンピック5位入賞
       1989年世界選手権優勝
       1992年アルベールビルオリンピック銀メダリスト
       3A(トリプルアクセル)、3T-3T(トリプルトゥーループ-トリプルトゥーループ)
           2Lo-3Lo(ダブルループ-トリプルループ)を女子シングルで初めて成功させた。
       2004年世界フィギアスケート殿堂入り。

 三人兄弟の真ん中で、兄と妹がいる。スケートを始めた頃は渡部絵美に憧れていた。庶民的なキャラクターで親しまれた。東海女子高等学校では、遠征のときを除けばほぼ無遅刻無欠席で通した。東海学園女子短期大学では家政学科人間関係コースで出羽秀明のゼミに参加し、「塩の道」をテーマに卒業論文を書いた。卒業後はプリンスホテルに就職。1991年12月には母校である東海学園女子短大に伊藤みどりメモリアルホールが作られている。
10歳のころからコーチの山田満知子の家に住む。当時は偏食でがりがりに痩せており、肉と野菜は一切食べず、魚もほとんど食べなかった。成長期・思春期に入ると、偏食は治ったものの体重管理に苦労し、中学時代には右足首を二度骨折している。高校時代にはアメリカへスケート留学の誘いがあったが、山田のもとに残ることを選んだ。

少女時代から「ジャンプの申し子」、「ジャンプの天才」と呼ばれていた。小学校6年で3回転-3回転の連続ジャンプを跳び、当時女子選手が体力的にも技術的に不可能と考えられていたアクセルを除く5種類の3回転ジャンプを中学生で習得した。ジャンプの高さは40センチを越え、ピーク時には64センチを記録した。東京大学体育学研究室の吉岡伸彦(1994年当時)の分析によると、伊藤のジャンプは踏み切り時の最高速度秒速8m、高さ約70cm、滞空時間約0.73秒、着氷時に片足に掛かる荷重約250kgで、ジャンプ時のある時点での速度は男子をも凌ぐとされた。


自身初の海外遠征である1981年世界ジュニアフィギュアスケート選手権では4種類の3回転ジャンプを跳び、海外プレスから「津波ガール」「台風ガール」のニックネームを付けられた。

初めて3回転アクセルを跳んだのは中学3年のシーズンで、練習を始めてから3ヶ月ほどで着氷に成功していたが、右足首を骨折したため練習を中断していた。カルガリーオリンピック後に、誰の目にもアピールできるものを取り入れようと3回転アクセルの練習を再開。1988-1989シーズンの愛知県フリー選手権で3回転アクセルに挑戦。競技会では初めての成功を収めた。

その後、国際大会で3回転アクセルを成功させた女子選手は、中野友加里とリュドミラ・ネリディナ(2002年スケートアメリカ)、浅田真央(2004年ジュニアグランプリファイナル)だけに留まっており、オリンピックで3回転アクセルを成功させた女子選手もバンクーバーオリンピックでの浅田真央のみである。

スケーティングには敏捷性があった。規定課題に苦心したため、規定をスケーティングの基礎と考え、練習時間の大半を費やしていた。

高校時代にバレエ教室に通って基礎から習っていた。表現力を身につけようと努力し始めてからは「東洋の真珠」「氷上の舞姫」とも書かれ、アルベールビルオリンピック直前には、ニューズウィークアジア・太平洋版2月10日号の表紙に「JEWEL ON ICE」の文字とともに伊藤の写真が掲載された。

自身の性格を喜怒哀楽が激しいと語っており、演技中にも自然と顔がほころんだり、失敗して舌を出したりしていたと振り返っている。カルガリーオリンピックのフリー演技後には、当時女子フィギュアスケートの選手としては前代未聞のガッツポーズを見せ、現地で好評を博した。

1988年カルガリーオリンピックで五輪初出場。「女らしさ」「優雅さ」を意識した演技で競技に臨んだ。コンパルソリーで10位につけ、ショートプログラムは4位で暫定8位となった。フリーでは5種類の3回転ジャンプを7度決め、思い通りの演技にガッツポーズを見せた。演技終了前からスタンディング・オベーションを受ける。技術点では5.8-5.9点と出場選手中最高点をマークし再びスタンディングオベーション。芸術点は5.5-5.7点(芸術点だけで5位)と低く抑えられたため、観客からはブーイングが起きた。この演技によってフリーだけで3位、総合5位入賞を果たした[21]。なお5位入賞は、1964年インスブルック大会の福原美和と並ぶ冬季五輪のフィギュアスケート日本代表選手最高位タイ(当時)で、6位以内の入賞は 1980年レークプラシッド大会の渡部絵美以来8年ぶりだった。


1988年、愛知県フリー選手権で、競技会では女子選手として世界初の3回転アクセルに成功。1989年1月の全日本選手権では、規定で初めてトップに立ち(この年から規定の課題が3課題から2課題になっていた)5連覇達成。1989年世界選手権ではカルガリー五輪のメダリストが引退し、4-6位のジル・トレナリー、伊藤、クラウディア・ライストナーの争いになった。規定で自身最高の6位につけ、オリジナルプログラムは1位(暫定3位)。フリープログラムでは着氷に乱れたが3回転アクセルを決め、日本人初・アジア人初の世界チャンピオンとなった。フリーでは、9人中5人の審判が技術点で6.0満点を出した。

1989年NHK杯では、自身初の芸術点6.0を獲得。1990年世界選手権は2位。1991年世界選手権から規定が廃止され、規定が苦手な伊藤にとっては有利にはたらくと思われた。しかし、大会1ヶ月前に右あご下の唾液を分泌する部分にできた結石を除去する手術のため入院。大会では、オリジナルプログラム直前の6分間練習中にレティシア・ユベールと接触して負傷し、演技中にはジャンプでリンク外に飛び出してしまう。フリーでも3回転ジャンプで失敗。総合順位は4位で、翌シーズンのオリンピック出場枠を3から2に減らしてしまった。

1992年、2度目のオリンピックとなるアルベールビル大会で日本人フィギュアスケート選手初の銀メダルを獲得。この大会のオリジナルプログラムでは、精神的な緊張から練習で3回転アクセルの成功率が落ちていたため予定していた3回転アクセルをより確実性の高い3回転ルッツに変更したが、そのルッツで転倒して4位と出遅れた。フリーでも一度は3回転アクセルで転倒するが、演技後半に再び3回転アクセルに挑んで成功。なお、フリーではもともと3回転アクセルを2度跳ぶ予定だった。エキシビションの際、「レイン・ストーリー」と「レ・ミゼラブル」のテープを名古屋に忘れてきていたため、NHKの衛星回線を使ってアルベールビルまで送ってもらった。


オリンピックのおりにアルベールビルでは風邪が流行しており、山田満知子は点滴を打ちながら伊藤の練習に立ち会っていた。伊藤自身も帰国するころから体調を崩し、出場を予定していた1992年世界選手権を欠場することになった。

1992年4月25日に新高輪プリンスホテルで引退記者会見を行い。6月17日には正式にプロ転向を表明した。

1992年バルセロナオリンピックではテレビのレポーターとして現地に赴いた。長野オリンピック招致活動では、1991年のIOC総会に小谷実可子とともに競技者代表としてバーミンガムに出向き、招致演説をした。

プロスケーターとしてはプリンスアイスワールドのメンバーとしてアイスショーに出演する一方、1993年世界プロフィギュア選手権や1995年の第10回インターナショナル・プロフィギュア選手権(チャレンジ・オブ・チャンピオン)を制し、第一線で活躍を続けた。1995年に長野オリンピック出場を目指してアマチュアに復帰。1996年の全日本選手権では3回転アクセルを成功させ、4年ぶり9度目の優勝を果たした。しかし世界選手権は体調不良もあって7位に終わり、1996年11月に再びアマチュアを引退。1998年2月7日に行われた長野五輪開会式では最終聖火ランナーに抜擢された。

現在は主にフィギュアスケート解説者として活動している。近年アイスショーからは離れていたが、2009年には「ザ・アイス」で7年ぶりにアイスショーに出演、2回転アクセルを披露した。

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